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大月真珠の歴史

大月真珠の創業者である大月菊男は、1914年(大正3年)に農林省水産講習所(現・東京海洋大学)を卒業後、1915年(大正4年)、愛媛県平城湾(現・御荘湾)で愛媛県水産試験場の技官として、当時まだ確立されていなかった真珠養殖の研究を開始しました。その調査研究は、「平城湾真珠貝基本調査報告」として1918年(大正7年)に発表しています。

その後、独立した大月菊男は、1922年(大正11年)に「球形真珠形成法」で特許を取得。さらに、1930年(昭和5年)までに3件の球形真珠に関する特許を取得しています。大月菊男の「球形真珠形成法」は、従来の養殖法に比べて球形真珠をさらに大型化させるのがその特徴で、今日の大型真珠の基礎を築きました。ほかにも、一般的に2個入れと呼ばれる2個の核を挿核して、2個の真珠をつくる挿核技術を開発・確立、その他の特許取得や調査研究を含め、真珠養殖技術の発展に寄与しました。

1929年(昭和4年)には、愛媛県の御荘湾で菊川漁業組合と銭坪漁場の貸借契約を結び、大月真珠養殖場を創設。1930年(昭和5年)、愛媛県の宇和島に個人企業として大月真珠を設立。さらに、三重県の賢島(志摩郡神明村、現・志摩市)にも養殖場を開設しました。1935年(昭和10年)には、神戸市に真珠の販売・輸出を目的とした大月商店を開設、卸売と輸出をスタートさせました。また同年、愛媛県宇和島と三浦湾にも養殖場を拡張、宇和海での真珠養殖も本格的に始まりました。

1937年(昭和12年)の日中戦争勃発により、戦時の経済統制強化による業界の安定と真珠産業を守るため、1940年(昭和15年)、日本真珠販売統制株式会社を設立。太平洋戦争開戦の翌年、1942年(昭和17年)日本合同真珠株式会社に改称、さらに1947年(昭和22年)日本養殖真珠株式会社へと改称しました。終戦後は、戦後混乱期の無秩序な真珠の海外流出防止に重要な役割を果たしました。

一方、養殖場は、1940年(昭和15年)の農林省令により真珠の養殖が禁止され、翌1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦から事業を休止し、食用として牡蠣(かき)の養殖をおこなっていましたが、終戦の翌年である 1946年(昭和21年)には真珠養殖を再開しました。

1952年(昭和27年)、神戸市に有限会社大月真珠商会を設立、同年、東京支店開設。翌1953年(昭和28年)には、福井県若狭湾に養殖場(現・若狭大月真珠養殖株式会社)を開設、同年、兵庫県の淡路島福良にも養殖場を開設しました。1954年(昭和29年)に愛媛県の養殖部門を宇和島真珠養殖株式会社(後の大月真珠養殖株式会社)として分離・独立させました。三重県と福井県の養殖場は、1967年(昭和42年)に若狭大月真珠養殖株式会社として別会社化しました。

1970年(昭和45年)に現在の社名である株式会社大月真珠に改称し、1975年(昭和50年)には真珠の輸出額で業界第1位の座を獲得、現在に至るまでその地位を保ち続けています。

近年では、1994年(平成6年)、インドネシアにPT.TIMOR OTSUKI MUTIARA、1999年(平成11年)には、PT.MARIA SOUTHSEA PEARLS INDONESIAを設立。白蝶真珠の自社養殖を開始しました。2000年(平成12年)、鹿児島県長島に鹿児島大月真珠養殖株式会社を設立、大月真珠では国内最南端となる養殖場が開設されました。

  • 創業者 大月 菊男創業者 大月 菊男
  • 球形真珠形成法の特許球形真珠形成法の特許
  • 昭和5年頃の愛媛県の真珠養殖場昭和5年頃の愛媛県の真珠養殖場
  • 昭和29年、天皇・皇后両陛下のご臨席のもと、開催された入札会の風景。歓迎挨拶は大月菊男昭和29年、天皇・皇后両陛下のご臨席のもと、開催された入札会の風景。歓迎挨拶は大月菊男
  • 平成6年、インドネシアに開設した白蝶真珠の養殖場平成6年、インドネシアに開設した白蝶真珠の養殖場

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